【74】 「 干支 (えと) 」


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「 おっ、 全甲 じゃないかぁ 」
「 オレ、丙 ばっかりで、屁まみれだぁ 」
私の小学校までは、通信簿(成績表)の評価は 「 甲、乙、丙、丁 」 だった。
嘗て我が国の教育制度の中で、陰陽五行の順番を成績評価に取り入れていたとは、何とも興味深く 面白い。

古い伝統を誇る私学で、今でも この評価を使っている学校もあるらしい。
干支(えと) は、甲、乙、丙、丁、戊 ・・・など 「 十干 」 と、子、丑、寅、卯 ・・・など 「 十二支 」 を組み合わせており、「 干 + 支 」 で 「 え と 」 なのだ という。
だから正式には、今年は 「 戊子(つちのえ ね=ぼし)」 なのだ。

暦には干支の動物が描かれ、特に年賀状などには、干支のイラストを工夫して興味深く描いているのが多い。
陰陽五行など全く知らなくても、十二支は身近な動物ばかりだから 親しみ深く、いつまでも続くのだろう。

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「 世の人の嫌らひ給ふ丙午(ひのえうま)・・・」 と 「 好色五人女 」 にもあるそうだが、昔から、丙午年生まれの女は気性が激しく、嬶天下で夫の命を縮めるなどという迷信もあり、この干支の女は大変苦労したらしい。
江戸時代には、夫を食い殺すとまで言われ、この年に女が生まれたら、嬰児をこっそり間引いたりしたこともあったというから凄まじい。

近年の丙午の年は、昭和41年(1966年)と 明治39年(1906年)である。
昭和41年の出生数は、終戦直前後の昭和20,21年のそれに匹敵するくらい極端に落ち込んでいる。
昭和時代後半の高度経済成長期であるにもかかわらず、一般社会の迷信や因習がこうだから、明治時代やそれ以前は推して知るべしだ。

「 若い頃はいろいろ言われたけど、迷信だし、全然気にしなかったよ 」
私の母は明治39年の丙午生まれだが、そのことを ほとんど気にしてはいなかったようだ。
高等小学校の教師をしていたが、教え子にも私たち子供にも優しく、夫には従順で甲斐甲斐しく仕えた、丙午の風評とは正反対の女性だった。
合理主義者の父も、こんな迷信なんて端から問題にしていなかった。
「 一緒になって以来、愛し愛され・・・」 生涯 夫婦仲が良かった二人だったから、
然も ありなんと思う。

ところで、私は昭和11年 「子年」 生まれだから、今年は年男だ。
私は日頃 昔のことは余り考えないことにしているが、6順目の子年を迎え、改めて来し方を振り返えってみると、72年間には色々なことがあったなと感慨も一入である。

「 辛かったことや厭なことなどの思い出は、年経るごとに薄められるんだな。些細なことは忘却の彼方に消えて中々思い出せない。我ながら良い性格だよな 」
天を仰いで感慨に耽っていると、「 ただ、ボケた だけでしょう 」 と カミさん。
まあ、今にしてあれやこれや考えてみて、総 じて恵まれた幸せな人生だったとは 思うのである。


 そこで三句
  ねずみ年 いばる割には 貧乏で (快団爺)
  大吉が 出るまで通う 初詣 (快団爺)
  「大吉だ!」 また賽銭を 上げに行く (快団爺)




この記事へのコメント

仮分数
2008年01月02日 19:48
素晴らしい新春です
快団爺様が気にされている年齢関係ありません
多くの政治家 作家 経済人が大正人間の多くが日本を背負ってます。
安心して安心して任せられる 安心して投資出来る年齢です。
ネズミは子沢山  まだまだ見捨てないで下さいよ
私たちを

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